私は、日本に住む人々に「風下の住民」の話をぜひ知って頂きたいと思います。あなたの将来に深く関係することだからです。
この話は私に深い感情を呼び起こします。私の両親、兄弟、いとこ、おば、おじは皆「風下の住民」でした。皆、政府が「安全」だといっていたレベルの放射能にさらされることで死にました。放射能はDNAを変異させ、ガンとなって現れ、私から大切な人々を奪って行きました。
「安全」な放射能というものはありません。全力を尽くして愛する人を守らないと手遅れになります。私はどうやって自分を守り、すでに受けた放射能に対処するかをお伝えするために来ました。私の家族に起きたことは、再び起こるべきではありません。悲劇が起こる前に皆さんを助けたいのです。
最初に、「風下の住民」とは何かをお話ししましょう。65年前ネバダ州ラスベガスの北西にある砂漠が核実験場として選ばれました。1951年1月27日、1000トンの爆弾が飛行機から投下され、フレンチマンフラットという場所の上空で爆発しました。これがネバダ核実験場で最初の大気圏核実験でしたが、その後何千回も繰り返されました。何万人もの人が、放射能の効果を知るために故意に放射能にさらされました。
キノコ雲が砂漠の空に出現し、放射性物質の混じった風が自分たちの住む街に吹いても、核実験について心配する住民はほとんどいませんでした。私は、みんな外に出て核爆弾の轟くような音と閃光を見に行っていたと両親から聞きました。そういった人々は、自分の死を招く原因を目にしていたとは思わなかったようです。
住民はキノコ雲が残した、目には見えないものと毎日生活していました。ユタ州はネバダ州の東隣で、その南端は核実験場とほぼ同じ緯度です。そのため住民やコミュニティは、ガンや出生異常など、いつまでも続く苦しみや経済的な損失などによる悲劇に苦しんできたのです。
アメリカ原子力委員会は、1950年代に核実験は「十分に安全が保証された」状態で行っていると断言しています。
実験場の風下の住民は、そのことを最初は信じていました。政府を信頼していたため、まさか政府が住民の健康を危険にさらすなどとは疑いませんでした。しかし、実際は核実験は人にも家畜にも安全ではなく、原子力委員会はそれを知っていたのです。
1978年に機密解除された文書では、早くも1945年の段階で科学者たちは核実験の核分裂により放出される物質は人間には致命的であり、しかもその後何年もその影響が残ると知っていたのです。
核実験とはその危険性から「ドラゴンの尻尾をくすぐるようなものだ」と科学者に批判され、たとえ低レベルでもさらされれば細胞が変異し、がんなどの病気を起こすことが確かめられていました。高レベルの放射能であれば、すぐに放射線障害やガンを招くと科学者は分かっていたのです。広島と長崎の原爆によりその後起きた悲劇は、高レベルの放射線の結果であることは疑いの余地はありません。
しかし、科学者は異なる低レベルの放射能にさらされるとどうなるかについて興味がありました。低レベルとは、科学者にとっては、さらされてから何ヶ月も何年も変化が起きないレベルの放射能という意味でした。そのため、意図的に人間、植物、動物に様々なレベルの放射線をあて、何が起きるかを観察し始めました。核実験後の風に乗せて広げたり、オートミールなどの食べ物に入れて子どもに食べさせたり、放射能のワクチンをしました。モラルのない科学は常に悲劇を呼びます。
1953年に600人の観客が核実験の実施を生で見るために招待されました。爆心地から11キロほど離れた場所から爆発を見て、その後爆発した場所へと案内されます。放射能にさらされることで起きる、また将来起こるかもしれない取り返しのつかないダメージについて良心から警告する必要性を感じた科学者や医者はその地方にもいました。あとになって問題が起きること、何年も経ってから、次の世代やそれ以降に出現することもあると警告していました。
農場で働く人々に最初に放射線によるダメージが表れました。ネバダ州で飼育された2万匹の羊が放射性降下物にさらされ、顔や唇にやけどが見られました。これは、放射能汚染された草を食べたためです。流産する雌羊が多数現れ始め、羊毛がごっそり抜け、火ぶくれが見え始めました。新しく生まれる子羊は、死産となり多くは奇形でした。羊の半分を失う農場もでてきました。原子力委員会は、科学者に報告書を書き直すよう指示し、放射線による被害等については消去させました。
1955年、農場主らは核実験により動物が被害を受けたとして原子力委員会を告訴しました。農場主とその弁護士は、正義は勝ち勝利を収めると信じましたが、放射能障害の政府の研究データは裁判員により隠され、政府が依頼した専門家の参考人は放射線障害により羊は死なないと証言して、牧場主らは落胆することになりました。弁護士は、政府が自らと核計画を守るために噓をついていると裁判官に納得させることが出来ずに終わったのです。
ちょうどこの頃から、白血病などの放射能が引き起こすガンが、ユタ州とユタ州の南に位置するアリゾナ州、ネバダ州の住人に現れ始めました。
小児がんの患者などいなかった街に、1950年代終わりから1960年代初めにかけて患者が増え始め、1990年代までに人々は自分たちは羊のように実験台であり、被害者であることを自覚することになりました。核実験は風が東に吹くときに行われましたが、それは望ましい実験場であるユタ州とアリゾナ州に放射性降下物が行くようにするためでした。被害者は、核実験場の風下に住んでいたことを示す「風下の住人」という名称を受け入れました。
放射性降下物によるガンの発症率は、この風下の非常に広い地域で上昇しましたが、ガンだけが核実験の副産物ではなく、不妊、流産、出産時異常などもありました。こうしたことは、核実験場の風下に住んでいた人々の負の遺産となっていました。多くの住民が、あと何世代まで影響が及ぶのだろうかと危惧したのです。
1978年、原子力委員会のごまかしが公になりました。司法は、政府の弁護士および職員が意図的に虚偽を行い、欺き、法廷への犯罪行為を行ったと結論づける新しい判断を示しました。
1990年には、ジョージ・ブッシュ大統領が被曝補償法にサインし、核実験場の風下に住み、その結果健康を害した市民に補償を行いました。政府は、今では放射能はその地域にがんの多くを発症させたことを認めていますが、被害者への補償はごくわずかです。その法文には、「原子力委員会は、こうした人々に危険を行った責任を認めるべきである。そしてネバダの核実験場の風下に住んでいた無実の人々や動物は、意図せずに倫理に反する科学実験台にされた。」と記されています。
多数の科学者と政府は、風下の住民、ひいては世界中の罪のない人々を非倫理的な放射能テストに用いたのです。
最終的には、多くの人が政府とその放射能に関する政策に皮肉な、さめた態度を取るようになり、さらにこの問題を政府が扱うことで今だに患わされている人たちも多くいます。このことから政府の市民に関する決定に対して、市民はいつも用心深くなければいけないことが分かります。人々が「国の興味」のために犠牲になるとしたら、少なくとも市民が可能な限り自らを守れるように十分な情報提供が求められます。
子どものときに私が放射能について学んだこと、および医者として学んだことが、皆さんを私の家族が経験したのと同じ悲劇から救えたらと思います。 今日の講演の内容をみなさんが知っている人全員に伝えて頂ければ、私の家族の死が無駄になりません。
伝えることで、あなたの子ども、家族、友人、知り合いを助けてあげて下さい。情報をシェアして、手遅れになる前に放射性物質を解毒する方法を伝えて下さい。